昭和50年6月1日 月次祭
大阪に玉水教会という教会が御座います。それこそ日本一を誇る教会です。そこの先代がおられます。沢山の人が助かった。ある時のご教話に「昨夜は泥棒が入った。けれどもおかげを頂いて何も盗られておるものも無い。本当に広大なおかげを頂いたというて、お礼参拝をして来た氏子があるが、ね、泥棒が入るだんではない。表を通っただけ、いや表も通らなかったと云う程しにある時が一番ありがたい時ぞ」と教えられたと云う事です。泥棒に入られた。
窓ばこじ開けられておった。タンスが引き出してあった。ね。あちらこちらまぁそういう泥棒の入った形跡がある訳です。所が調べて見た所が何んにも盗られていなかった。広大なおかげを頂いたと言うて喜ぶ、お礼を申し上げておるけれども、云うなら泥棒が入りもしなかった、表も通らなかったと云う時にが一番有難い時だというのです。信心を頂いて、それこそまぁ奇跡としか思えないおかげを頂きます。ね。広大なおかげを頂いた。日頃信心のおかげでと申します。
そりゃ勿論誰でも有難いですけれども、そうではないもっと素晴らしい、おかげを受けておる時におかげをおかげと、気付かせて頂くと云う事がもっと有難い。只今も丁度お祭りを終わって、私しが御祈念を終わったのと同時に、子供の泣き声が致します。私の方のまさしく聡子の声です。孫の声です。どうした事だろうか、と思うて今下がらせて頂きましたら何とそこから落ちとると云う事です。そこにこの薄いカーテンが引いてあるとば、向こうの方が風の通りが良い様にとで、開けたままになっておった。
それカーテンに向こうにあれがあると思うて、こう行った途端に下ば、もうそれこそ皆さんもご承知の様にあんな高いですね。ここはしかも下はもうコンクリやら石やらばっかりで御座います。はあ嫁と家内とでもうおかげを頂いた、どっか痛かとこはなかのち言うて、どこん痛かとこはないこぶも出ていない。おかげを頂いたさあお水で冷やしておきなさい、お神酒を付けときなさいはあおかげを頂いたと言いよるけれどもです、本当に例えば落ちもしなかった怪我もしなかったと云う時はもっと有難い時なんです。
信心させて頂いて、愈々有難く成らせて頂く稽古というのは、そういう言うならば常日頃、平穏無事であると云う時にです、心からお礼の申し上げれる信心。勿論人間生身を持っておりますから何時どう云う事があるか解りませんけれども、それを未然におかげを受けるとか、または大難を小難にお祀り変えを頂くとかと云う様な、奇跡的なおかげを頂かせて貰うて尚また有難い。
何でもない時は尚又有難い。是が私くしはお道の信心の、所謂天地の親神様がね、氏子信心しておかげを受けてくれよというのは、そう云う何時もが有難いと解らせて頂く信心を、頂いてくれよ解ってくれよと云う事だと思うのです。昨日は三十一日で月の一番最後の日が御礼信話会というのが、そのお参りをし合わせた者ばかり。丁度昨日は三十四、五名でしたでしょうか。
御祈念を終わらせて頂いた後、此処にこう丸く輪を作りまして、たら今月おかげを受けた、いうなら一番有難いと思うた事を一口づつ皆さん話して下さいと云う訳で、西岡先生司会の下に約一時間あまりお話を聞いたり聞かせて貰ったり、話させて頂いたので御座いました。今月の信心。先月ですね。五月の信心とでも申しましょう。是は信心がもう日に日に新にね、信心は成長しておるのですから、先月と今月が同んなじであって良いと云う事はありません。ね。
是はね信心を願い信心を求めておりますと、ねそれは一分一厘ずつでも信心が成長する。そして今まで知らなかった。ね、解らなかった分野。言うなら自分の心の上にもね、今までかつて味おうた事のなかった新たな喜びと云う物が、開けて来るのでなからなければ信心の稽古をしておるとは言えない。此処には信心の稽古に来る所と言われるけれども、此処にはおかげを頂きに来るところと云う所から皆んな始まります。ね。だからおかげを頂くからお参りをして来ると云う間は、心がそんなに開け。
それこそまあ大難、まあ信心させて頂いておるおかげで、もうこげん所から落つるなら怪我せにゃ、怪我するとが本当だけれども、怪我もせずにおかげを頂いたと云う様なおかげを頂いてです、ね。信心のおかげでとこう思いますけれども、それよりももっと平穏無事で、泣きもせずに落ちもせずに言うならば悪さでもしておる時が一番有難い時だと云う事が解りますけれども、ちょっと悪か事すると、この人ばっかりはもう悪い事ばっかりしてと言うて、不平不足を言う足り起こったりする。
是ではねその有難いと云う所がもうわずかな事になるのです。信心とはもう四六時中が有難いと思わせて頂けれる稽古なんです。三代金光様の御在世中にある偉い先生が金光様のご自宅に何か御用があっておいでられた。沢山なお子さんがおられますから、お孫さんも随分賑やかにおられる訳です。金光様とこうやって対峙してお話しておる所に、お孫さん達が二三人暴れ込んで来る。
そーしてそこで、ヒックリ返っておる者もおりゃ、障子を破る者もいる。襖を汚すもんもおる。それでその先生金光様に金光様本当に、お孫様達で賑やかな事で御座いますなあと言うて申し上げた。はあ、この人達が悪うしてどうこう出来ませんち言わっしゃらじゃった。私どんならそげな風に言うじゃろうが。そしたら金光様がどう仰ったかというと、「もうおかげで大変よく働いてくれます」と仰る。是は金光様の御内容だった訳です。。それこそさあ寝付いておる熱がある。
母親が一人掛かっておらなければならないと云うなら、どうにも困らなければならないのですけれども、それこそ子供は一生懸命悪さでもしておる時で、それは実は働いておる時である。傍を楽させておる時である。母親の手を取っていない時である。おかげでよく働いてくれますと、もうこの一言に恐れ入ったというお話が御座います。そういう例えば有難いというおかげをです、頂きたいものだと思います。そういう有難さでなからなければ、あの世にも持って行けれると云う事にはなりません。
はぁお願いしよってから思い掛けない金儲けのおかげを頂いた。これは医者がもう助からんという病人がおかげで命拾いをした。その有り難さではあの世では通用しないのです。 あの世では通用するのは何時もが言うなら四六時中が有難いと勿体無いと云う物でなからければならない。ですから信心とは究極ありがたくならせて頂く稽古だと言われる所以で御座います。ね。
昨日そういう研修会の折に話させて頂いた事で御座いますけれど、昨日の朝の御祈念の後に、福岡の高橋さんのお取次ぎをさせて頂いた事をお話させて頂いた。お話を頂こうという姿勢を作るというか、本当に頂きたいという姿勢を作っておらないと、中々お話が良いお話が頂けないのですけれども、今日はまどうでもよいおかげを頂くならば参ろうかというて参って来た方があって、足が悪いからここで椅子を、お導きをした人が椅子を持って着ておる。それから此処で暫くお話を頂きたいと。
お話をしていっちょんもう返事はなさいますけれども、あられぬ所どんで返事をしたごたる風で一つもこうお話が入って行きよる風じゃない。そこで私がその高橋さんのお話をしだしたんです。此の方はあなた大体九大を出られて法学士の肩書きを持っておられる方なんです。それがおかげを受けられて現在すし屋をなさっておられるが、九州中に支店が十からありましてね、そして従業員の方が百名からおられます。ほしたらその人がぎょろぎょろ目をして話を聞きだしました。
その方の家も大きなホテルをなさっておられます。最近新築が出来ます。その時もここにお伺いに見えてそのご新築をなさいました。おかげを頂いて、あの値上がりの前に立派に出来上がりましたと。はあもうおかげでそれこそ何億円の言わば開きが出来た。と云う程しにおかげを頂いておるけれども、それをおかげをおかげと思いきらなかったら信心は出来ません。ね。その時にはこの位の鯛を一匹とお酒を一升持って来てお礼に出て見えただけじゃった。
おかげをおかげと思っていない。所が最近大変この足が悪くて、こう横にならんならんごと足が悪い。それでまあ今日は改めて参って見えたお方なんです。ね。それでその、おかげを頂くとか、おかげを頂いたとか言わば、ほうーと云う様なお話をすると心を向けるけれども、愈々信心が解る。信心をね頂かせて頂く為にはというお話になると、皆んながそっぽを向く。おかげを受ける話は聞くけれども、信心を頂くという。力を受けるお徳を受けるという話には、あんまり感心を寄せない。
朝昨日の朝の御祈念の後に、高橋さんがお届けをなさっておられました。それはおすし屋さんですから、香椎花園ですかね、あご無礼いたしました。これは昨日の午後のお届けでしたかね高橋さん朝は違ったですね、二度目また午後私し下がっておりましたら、ほんに参って見えましたのです。そして実は香椎花園から電話が掛かって来た。ラジオを聞いてもテレビを見ても今夜から明日に掛けて雨が降るという。それで万一また降らなかったらいうならお寿司が売れる訳です。
お弁当が。ですから出来れば二百ばかり作って欲しいけれども無理には言わんと云う訳です。ね。売れなかったらネマラんならん返えさんならん。それで気の毒なから、まあー高橋さんあなたのところのまあいうなら都合で作っても良い作らんでも良い、作ってもらうなら二百位欲しいと云う様なお電話であった。ね。それで昨日また、午後からお伺いに見えられた訳です。それで私が作らせて頂きなさい、作られるだけ作らせて頂きなさいというて申しました。
それからもう早速前の夕べから作らんなりませんからね、から昨日は夜通し恐らく作られた事であろうと思うのですけれども。丁度昨日の信話会を始めようとする頃から、お湿りがありだした。矢張りテレビが合うた、ラジオが合うたと云う事になる。風まで一緒に吹いてここら当たりはお湿りがありました。それで私はその事のお取次ぎをさせて頂いておりますから、やっぱり責任を感じる訳です。此のままするなら又二百の弁当が余りどんするならどんこんされんと思うて。
それから神様に私お願いをさせて頂きましたら、神様から教八と云う事を頂いた。教えの八ね、金光教の教と言う字と八の字を頂いた。その事を昨日皆さんに聞いて頂いたんです。皆さんが例えば御神意を伺われる。伺われると云う事はね、目先目先の事ではない。お取次ぎを頂いて起きて来る事良い事悪い事、皆良いという信心が解った時が本当な事なんです。ね。
お伺いをして二百作らせて頂いたらお湿りで二百は大余りだった。それでもね、神様が教えた事は必ず広がる。必ずおかげになると言う御教えであったと思うのです。教八と頂いた。教えのやあーつと頂いた。教えた事は必ずおかげになると云う事なんです。神が教えた事は例えば目先は損の様にあっても、神様のお働きをそのままに受けてこちらを立たせて頂いたら、ね、おかげになる。
まあ是はおかげを頂いて、今日は福岡当たりもお天気であっただろうと思いますけれども、恐らくその二百のお弁当も売れた事でありましょう。ね。あれが二の足を踏んでそして、雨でも降ったら余らかさんならん、損せんならんからもう、今度は断っておこう。いや半分ばかりにしておこうと云う事になっとったかも知れません。けれどもそこは信心を頂いておる者の度胸です。信心の度胸が段々出来て来る。
親先生のお伺いをさせて頂いて作れるだけ作れと、言われたから作らせて頂いた。おかげを頂いて降る筈のが降りもせずにお天気のおかげを頂いて、全部売れたというおかげを受けると言う事は有難いけれども、最近のいうなら合楽の信心の傾向と申しましょうか動向と言うか、それは例えばそれがよしその二百の弁当が腐っても、お取次ぎを頂いてからの事であるからおかげであるとおかげを頂いた。
自分の思う様になった時にお礼を申し上げる様な心と、同んなじ心でお礼を言えれる様な心の状態をを育てて行く、と云う事が是から合楽の信心だと、云う風に聞いて頂いたんです。ね。そこにはね、売れてもおかげ売れんのもおかげという心の状態。またその心の状態の上にです、必ずそれこそ教えた事は広がるのだと、八の字に末広に広がって行くんだと。おかげの元になるんだと。
それを確信しての信心ですから喜ばなければおられんのであり、お礼を申し上げねばおられんのであるという信心を、お互い把握しなければならないと云う事であります。ね。高い所から落ちた。ね。しかも下は石ばっかり、コンクリのばっかり。ね。一つ間違うたら命に関わる様な事があるかも知れん、そこを落ち切ったとっから血が出ておると云う様な事になるかも知れんのだけれども。
かすり傷一つせず、こぶ一つ出らんでおかげを頂いておると云う事は、神様がこう受けておって下さっただろうと思わなければおられない様な、おかげを頂いて広大なおかげを頂いた、と喜ばせて頂いくその喜びが今日も無事であった、今日も悪そうはしたけれども、ね。今日も本当におかげを頂いて神様のご守護中にです、おかげを頂いたと云うその喜びがそう云うおかげを頂いた時と同んなじ。
いやむしろそれの平穏無事であった時の、有難さが愈々募って来ると云う様な、心の状態を開かせて頂いた時に信心させて頂く者の真実の幸せがあり、そう云う喜びであってあの世にも持って行けこの世にも残しておけれるんだと云う事になるのですから、信心を願って信心を求めなければ、いけないと云う事が解ります。ね。泥棒が入った。おかげを頂いて随分荒されておるけれども、調べ見た所が何一つ盗られていなかった。あぁ広大なおかげを頂いたと喜ばせて頂く。
その喜びが今日も無事であった今日も悪さをしたけれども、ね、今日も本当におかげを頂いて、神様のご守護の中におかげを頂いた、と云うその喜びがそういうおかげを頂いた時と同じ、いやむしろ、それの平穏無事であった時の事の、有難さが愈々募って来ると云う様な心の状態を開かせて頂いた時に信心させて頂く者の真実の幸せがあり。そういう喜びがあってあの世にも持っていけこの世にも残して置けるんだと云う事になるのですから、信心を願って、信心を求めなければいけないと云う事が解ります。ね。
泥棒が入った。ね。おかげを頂いて随分荒されておるけれども、調べて見た所が何一つ取られていなかった。広大なおかげを頂いたとお礼参拝をさせて頂くが、ね、それこそ毎晩毎晩ねそれこそ、高枕で休ませて頂けれる程しのおかげを日々頂いておると云う事が、ね、それよりももっと有難いんだと理屈では解っても心でそれを感じれれる信心を今合楽では、ね、そういう信心に目覚めさせて貰う。そういう信心を身に付けさせて頂くと云う事に一生懸命。流石に昨日三十九人の方達が色々お話なさる。
殆ど幹部の方達はです、今月の信心で一番言わば有難いと思う事は何処かと。佐田の若奥さんが発表しておられました。三、四日前にお夢を頂いた。久留米の方からお参りをして来よると、あの十三部の辺りでここの親奥さんが一人で歩いて帰っておりなさる。はあこう云う所でお会いしてまあ丁度良かった。どうぞ私共の車にお乗り下さいというて乗って貰うた。けれどもその奥さんのその態度と云う物が、乗っても良いならば又、このまま大体歩く腹でおるのだから歩いても良いと云う様な。
その情感というかそういう表情というか態度がね、もう今の合楽の信心を是だと思うたと云うお夢を頂かれたと言う話をなさっておられます。はあおかげを頂いて自動車に拾うち貰うちからおかげを頂いた。ね。そりゃもう、通り掛かりのじゃね、ちょいと止めちからちょいと合楽まで乗せて行って下さいと云った様な物ではなくて、ね、通り合わせた人がそれこそ拾う様にしてどうぞお乗り下さいと云う、おかげを頂いたであり、同時に又歩かせて頂いておると云う事もです。
よか修行をさせて頂いておるのですからもう淡々としてです、車に乗るもありゃ歩くもあると云う様なあり方。そういう信心を先月所謂、昨日の言葉で言うと、今月はその事に愈々ぎりぎり焦点を置いて様々な事がありました。御座いましたけれども、どちらを向いても矢張り、おかげであるという答えを出しながら稽古をさせて頂いた事が、今月の信心の最高の有難い者でしたと、いう発表をなさっておられます。稽古なされなければいかんのです。そう云う稽古の問題が沢山あるんです。
自分の思う様になったらおかげ、思い様にならなかったらおかげではないと云う所に有難かったり有難くなかったり。ね。是ではね此の有難いでは役にはたたんというのです。子供におやつをやったらニコッと笑うのと同んなじなんあです。おやつをねだっても貰えなかった時にもです、矢張り有難いと解らせて頂く信心。言うならば降ってもおかげなら、愈々照っても又おかげであるという、その問題は実感なんです。
高橋さんの例を取りましてお取次ぎを頂いて、ね、おかげを頂いたおかげで、二百の弁当を作りおおせた。おかげで売れたそれがあり難い。勿論あり難いけれどもそれがなら、明く日お湿りで折角作った二百の弁当が余った、ネマったと云うても、ね、はあ是は神様のお取祓いには違いない、廻りのお取祓いを頂いて有難い。言うならばお弁当二百個分のおとり祓いと思うたらお礼を言わなければおられんと云う信心がです、又はお取次ぎを頂いて親先生のお言葉とおりにしてからの是の事だから。
是はおかげに繋がらん筈はないという確信を持ってお礼を言うという元気な信心が必要である。所謂教八である。ね。神が教えた事にはそれこそ一部だって間違いはないんだ。氏子の思う様になるならないは別としてです、神が教えた事を実行すると云う事は必ず広がる元、おかげを頂く元になるんだと言う確信が出来る所迄の信心を皆さん頂いて頂きたい。今月も又、そういう信心を愈々進めて行きたい、求めて行きたいと思います。
どうぞ。